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2008 年10月25日 高橋 俊二
アリ ベイ(Ali Bey)の1803年から
1807年の間の旅行記


(Travels of Ali Bey in Morocco, Tripoli, Cyprus, Egypt, Arabia, Syria and Turkey
between the Years 1803 and 1807, London 1816)


 

「アリ ベイ(Ali Bey)1803年から1807年の間の旅行記」

 

「アリ ベイ(Ali Bey)のモロッコ、トリポリ、サイプロス、エジプト、シリア及びトルコにおける1803年から1807年の間の旅行記」

(アリ ベイはドミンゴ バディア レブリシュの偽名)

 

ドミンゴ バディア レブリシュ(Domingo Badía y Leblich)

1816年ロンドンで出版

(Travels of Ali Bey in Morocco, Tripoli, Cyprus, Egypt, Arabia, Syria and Turkey
between the Years 1803 and 1807, London 1816)

 

 

原文はフランス語であり、1814年にパリで出版されている(The title of the original edition was Ali Bey Voyages en Aftique et en Asie, pendant les années 1803 à1807. Paris 1814.)。英語版はウェストミードで1870年に再版された(The English edition has been reissued in Westmead, 1870.)

 

III42-46からの抜粋

 

ジェッダ(Djedda)は小綺麗な町である。その通りは整然とし、家々は立派に見える。殆どは23階建てで、全て多くの窓を持ち、平らな屋根をしている。その多くは石で作られているが、石材が脆いので堅牢では無い。

 

5つのモスクがあるが、全て貧弱で醜い。町は立派な壁で囲まれている。この壁には不揃いの塔が付随している。外側の壁から10(pace)の所に掘り割りがある。側面から何の作用も受けないのでこの掘り割りは全く役に立って居ない。市の門の位置ではこの掘り割りは土砂で埋められ、はね橋の代わりの通行を可能にしている。これは最近の建造なのに、長くは維持されず、その側面は内張もされず垂直に切られている。この掘り割りは10フィート幅で12フィートの深さがある。

 

公共市場へは十分な供給があるが、値段は高い。鶏の値段は1スペイン ピアストル(a Spanish piastre)である。ジェッダ(Djedda)には川や泉が無いので菜園は無く、野菜は遠くから運ばれてくる。

 

住人は雨水を飲んでいる。この雨水は上質な水槽(cistern)に保存されているので大変に美味しかった。私にとっては余り良い品質ではなかったパンについて私は多くを言えない。空気は常に芳香で満たされている。全ての公共の場所には飲み水をガラスのコップで売る男達が居た。この男達は近くにこんろ付きの卓上鍋を持っており、その中で香やその他の芳香植物を燃やしていた。同じ様な習慣がコーヒーハウス、商店や住居の中でも見られた。この町にはおよそ5,000人の住人が居り、この町は紅海の内陸交易の市場であると考えて良いだろう。モカ(Mokha)からの船はこの町にコーヒーや東方の物資を運んで来る。これはここで荷揚げされ、他の船に積み替えられ、スエズ(Suez)、ジェンボア(Jenboa)、コッシエル(Kossier)やアラビアおよびアフリカの海岸のその他全ての場所に運ばれる。

 

ジェッダ(Djedda)の商人はモカ(Mokha)で買うか、モカの船の荷を買い、ジェッダ(Djedda)で売る。そして、スエズ(Suez)の弁務官の仲介を通じて購入する為に、カイロ(Cairo)の商人は金をジェッダ(Djedda)に送金する。全てのヨーロッパの製品、特に衣料はスエズ(Suez)を経由してジェッダ(Djedda)に輸入される。しかしながら、これらは東方の製品やコーヒーとは均衡せず、東方の製品やコーヒーは輸出され、スペイン ピアストリ(Spanish piastre)や大きなドイツ クラウン(German crown)で支払われた。ジェメン(Jemen)やモカ(Mokha)でも相当に利益があったので、コーヒーは最も需要があった。

 

私の旅行を扱ってくれた商人は明らかに大規模な交易を行っていたが、この商人から何を得るのも非常に難しかった。この為、「この商人は殆ど金を持って居ない」と私は信じている。

 

税関や金持ちのアパートでは贅沢の大きな取引があったが、価格の低い注文の中には多くの非常貧しい人達が居り、幾人かは殆ど裸同然で、最大の窮状にあった。

 

守備隊は200人のトルコ兵とアラビア人兵士で構成されていたが、これらの兵隊が守備についたり、最低限の軍務をこなしたりすると言う様な幻想は抱かない方が良い。兵隊達の仕事はコーヒーハウスで飲んだり、喫煙したり、チェスに興じたりして夜と昼を過ごす事に限定されていた。

 

ジェッダ(Djedda)にはヨーロッパ人は居ないが、荷揚げ場に隣接する家やバラックに閉じこめられた何人かのキリスト教徒、コプト教徒(Copt)が居た。

 

この町で一番重要な人物は商人の長で、シディ アラールビ ジラールニ(Sidi Alarbi Djilarni)と呼ばれていた。この男は有能で英国人をとても好み、殆ど全ての取引は英国人と行っていた。

(挿し絵): 1805年に彫られたジッダ(Jiddah)の聖職者(not available)

 

フランス人がその前の年にスルタン シェリフ(the Sultan Sherief)所有の豊かな積み荷を持った船と多くのアラビア船を拿捕したので住人はこの時に非常に立腹していた。にもかかわらず、住人達は報復したり、フランス人に憎しみを見せたりする様な事はなかった。反対にフランス人と仲良くするのを望んだが、住人達には「どの様にすれば良いか」が分からなかった。住人達はエジプトでのフランス人の振る舞いを知っていたので、「本当にフランス人を好み始めていた」と私は信じる。

 

かつてそうであった様にアラブ馬(Arabian horse)の名声に魅せられ、私は自分の馬をスエズからカイロに送り返した。しかしながら、ジェッダ(Djedda)では売り物では無く、金持ちの商人が自分専用に使う数頭の馬を除いて、アラブ馬は居なかった。私は一頭のラバ(mule)さえ見ていない。驢馬(ass)は立派で大きく良く育っているが、エジプトの驢馬の形と較べて利点は無かった。無数の駱駝が居たが、駱駝はこの国の困難に耐える唯一の動物であった。

 

 

 

私は膨大な数の犬を通りで見掛けたが、全てのイスラム教徒の町同様に、これらの犬には飼い主が居ない。犬達は適当に組織され、種族や家族に別れている様に見受けられる。その中の一頭が自分の住みかから不幸にあるいは大胆に離れると犬達は悪魔のような鳴き声を立て、侵入者は重傷を負わずに逃げる事は出来ない。ヨーロッパ種に似ている猫は犬と同じ位の数が居る。蠅は殆ど居らず、蚊やぶよの様な吸血羽虫やその他の昆虫も居ない。

 

ジェッダ(Djedda)には石炭は産せず、遠くから運ばれて来た薪か古い建物の廃材が唯一の燃料であった。住人は必要な小麦粉をアフリカから入手している。

 

「こことスエズ(Suez)の交易の為に約100隻の沿岸航行の舟があり、同じ数の舟がモカ(Mokha)と行き来している」と言われているが、一般的に多くが修理中であり、私は「この数は減っているだろう」と思う。毎年、何隻かが紅海の岩礁に座礁して失われている。しかしながら、スエズ(Suez)、ジェッダ(Djedda)およびモカ(Mokha)では常に何隻かの新造舟が作られている。

 

これらの人々はかつてもっと金持ちであったが、ワッハーブ主義者達(Wehhabites)との戦争で何年もの間、夜も昼も武装しなければ成らなかったので彼等を貧しくさせた。この事は東方との交易を麻痺させたヨーロッパでの戦争でも同じで、、西からの巡礼を妨げたり、難しくさせたりした。これはエジプト(Egypt)、アラビア(Arabia)、バルバリー(Barbary)(エジプトを除く北アフリカの旧称)や自分自身の国の中での革命でも同じである。これらの原因全ては彼等の幸福感や富みに強く影響した。町の壁の無い陸側には非常に貧しい人達の住む多くの家がある。

 

ジェッダ(Djedda)は沙漠平原に位置しており、その気候は一定しない。「短い時間の間に、湿度計が非常に乾燥した状態から極端に湿り気の多い状態を示した」のを私は観察した。アラビア半島の沙漠を横切ってくる北風は皮膚が干上がり、紙がまるでオーブンの入り口に置かれたかの様にヒビ割れる程に乾燥した状態で吹いてくる。空気は常に砂混じりである。もし、風向きが南に変わると全てが正反対の極端になる。空気はジメジメし、取り扱う全ての物がじっとりした湿気を感じさせる。この湿気は動物性繊維を弛緩させ、不愉快である。にもかかわらず、「これは乾燥した北風よりは健康的(Salubrious)である」と住人達は断言する。

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